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    西暦1054年

    分裂し 東方教会 ひとおこし(1054)

    服装や意見などが保守的で無難な様子を『オーソドックスだ』と形容する事が
    ありますよね。 今回はその『オーソドックス』のお話です。

    カトリック教会は、ローマ教皇を頂点として組織が運営されていましたが、
    東ローマ帝国(ビザンチン)にある「コンスタンティノープル支店」との間に、
    教義上の解釈や儀礼などに関する差異が生じ、1054年に『東西分裂』
    してしまいました。西はローマカトリック、東は東方教会(別名ギリシャ正教、
    又は“オーソドックス”)という構図になりました。後に東欧やロシアとなる
    スラブ系国家とギリシャが正教(オーソドックス)勢力圏として定着します。

    オーソドックスは、いわば仏教における小乗(南伝)仏教の様なもので、
    原始キリスト教の教えを守り続けている感じです。まあ元々、新約聖書
    には、ギリシャ語で書かれた文書が数多く含まれているのですから、
    こっちの方が『正教』と名乗るのは、無理もないかも知れませんね。


    
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        アルバムの一枚
        (Feuillet d'album)

      マラルメ作  浜和幸訳

    突然に そして冗談のように
    私の数本の横笛の
    音色を聴いてみたいと
    望んだお嬢さん

    部屋の景色を見ながらの試し吹きは
    巧くできたと思ったが
    あなたの顔が目に入った時
    吹くのをやめてしまった

    頑張って吐き出した私の息は
    こんなにこわばった指先では
    空気さえ魅了する

    自然で 明るく 子供っぽい
    あなたの笑い声を
    真似ることができないと感じたから

       


       

     西暦987年~1328年

   カペー朝 喰わな(987)い意味には(1328) わけがある 

   西フランク王国(フランス)のカロリング家の直系男子が途絶えたので、987年、
   カペー家が新たな王朝として選ばれました。(カペーというのは、俗人修道院長の
   羽織のことで、初代王となったユーグが常に着用していて、ユーグ・カペー
   『羽織(カペー)のユーグ』という愛称で呼ばれていた事によるものです。
   カペーは、英語ではケープ、ポルトガル語ではカッパと言い、日本語の“合羽”の
   語源になった単語です)。

   このカペー家も約350年で男子直系が途絶え、断絶します(1328年)。
   建国時にはパリとその周辺数十キロの領地(イル・ド・フランスと呼ばれます) 
   にしか勢力が及んでいませんでしたが、王朝末期には現在のフランス全土を
   完全支配できる様になっていました。

   因みに、直系相続で、ダントツ世界最長の“王朝”は、日本の天皇家です。
   (約100代 1500年)。 何かメチャ誇らしいですよね。

   

    

          ノートル・ダム・ドゥ・パリ
           (Notre dame de Paris)

          ネルヴァル詩  浜和幸訳

       ノートル・ダムはとても古い大聖堂だ.
       その誕生を見て来たパリが埋葬されるのを
       大聖堂が見ることになるかも知れない.
       しかし何千年かの間には 時が崩していくだろう.
       狼が強靭な牛を倒すように、重い鉄筋を捻じ曲げ
       その鋭い歯で 悲しい音を立てながら
       石の骨組みさえも齧ってしまうだろう.

       地上のあらゆる国から多くの人々が
       この壮大な廃墟を見に来るだろう.
       夢想家たちはユゴーの本を読み返すかも知れない.
       すると崩れ果てた大聖堂が、
       かつての力強さを持って、荘厳に、死者の影のように
       立ち上がって来るのを見るだろう.
       
    
        

   

       西暦962年~1806年

     苦労人(962) 人はお迎(1806)え 神聖に

     東フランク王国(後のドイツ)は現在のフランスにあるブルゴーニュ地方
     (ワイン産地として有名ですね)やイタリアも征服して強大になり、962年に
     ローマ法王から“ローマ帝国”と自称する事を許可されました。随分後になって
     “神聖”という接頭語が勝手にくっつけられ、『神聖ローマ帝国』になりました。

     名前がかっこよかったお蔭で、850年間も存続できましたが、1806年、
     ナポレオンの挑発により、 一部の州が独立を希望し、帝国は滅びました。
     (滅亡前の600年ほどは“ハプスブルク家”による独占統治でした。)

     ところで、ドイツにもフランス同様、複数の王朝があったのですが、
     その統率力は「町内会長」ぐらいのもので、各地の大名がバラバラに
     支配権を行使していました。ですからドイツに於ける王朝らしい王朝は、
     『ハプスブルク朝だけ』と覚えてしまって良いでしょう。